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LOGINあれから、滝川さんとはラインでやり取りを続けていた。
一日一通だけ。ほんの短いやり取りだけだった。
でも、その一通を待つのが、いつの間にかわたしの日課になっていた。
《お疲れさまです。今日も寒いですね》
《お疲れさまです。生徒たちは元気でしたか?》
そんな他愛のない文章なのに、読み返すたび、心が少しだけ温かくなる。
……不思議だな。こんな気持ちになるなんて。
ふとスマホの画面を閉じると、母からの不在着信が目に入った。
「……また?」
きっと結婚のことを言われるに決まっている。
あえて折り返す気にはなれず、わたしはスマホを裏返した。
学校でも、生徒たちがやたらとわたしのことを観察している。
「先生、最近なんか変わったよね?」
「絶対、彼氏できたんだって!」
「どんな人?どんな人?」
保健室の中で勝手に盛り上がる声。
否定するタイミングもなく、わたしは「まあ、いいか」と心の中で呟いて、備品の確認に集中することにした。
放課後。
生徒がいなくなった静かな保健室に、早川先生がふらりと顔を出した。
「お疲れさま。ちょっと休ませて」
椅子に腰かけた先生と、自然と雑談になる。
「最近、二年生の子たち、少し落ち着いてきましたよね」
「うん、確かに。保健室に来る子の顔も、前より明るい気がする」
他愛ない会話のはずなのに、どこか心地よかった。
だけど──。
「そういえば奈那子先生、最近ルーチェに行ったって聞かないけど……行ってる?」
一瞬、心臓が跳ねた。
……ルーチェ。
その名前を聞いただけで、胸の奥がざわつく。
わたしは慌てて笑顔を作り、「そういえば、最近は行ってないかな」とだけ答えた。
嘘ではないけれど、本当の理由を言えるわけがない。
「そっか」
早川先生は深く詮索することなく、それ以上は聞いてこなかった。
わたしは手元の資料を片付けながら、まだ胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。
***
滝川さんと、あのパスタ専門店で会う日が決まった。
ラインのやり取りを続けるうちに、次の日曜日にランチを一緒にする約束をしたのだ。
その瞬間から、胸がそわそわし始めて落ち着かない。
気づけばわたしはスマホを手にして、ヒロちゃんにラインを送っていた。
《何の服を着て行ったらいいと思う?》
送信してから、自分で赤面する。
まるで学生みたいな悩み。
すると、すぐに既読がつき、返事が届いた。
《あら、学生みたいなこと言うのね》
思わずスマホを抱きしめて笑ってしまう。
その後、ヒロちゃんが「仕事終わりにそっち行くわ」と送ってきてくれて、結局その日の夜、家まで来てくれた。
「はいはい、クローゼット見せて」
そう言って勝手知ったる様子で部屋に入るヒロちゃん。
一緒にあれこれ組み合わせて、最終的に“日曜日の服”が決まった。
「初デートだものね」
そう言って微笑ましそうに笑うヒロちゃんを見て、少し恥ずかしくなる。
「ありがとう。お礼に夕飯作るね」
そうしてわたしは冷蔵庫にあるもので食事を作った。
「へえ、腕を上げたわね」
ヒロちゃんは箸を持ちながら嬉しそうに褒めてくれた。
「昔から料理だってヒロちゃんの方が上手だったものね。ヒロちゃんに褒められると、自信つくなあ」
そう言うと、ヒロちゃんは得意げに肩をすくめた。
思い返せば、わたしは昔からずっとこうして助けられてきた。
初めてデートする日の服を一緒に選んでもらったり、彼氏にお弁当を作るときにアドバイスをもらったり、バレンタインのチョコ作りを教えてもらったり。
……今回もまた、ヒロちゃんに背中を押されている。
わたしは感謝の気持ちで胸がいっぱいになっていた。
***
日曜日。滝川さんとのランチ当日。
約束は十二時半だったけれど、わたしは少しでも気持ちを落ち着けたくて、早めに家を出た。
お店の前に着いたのは十二時二十分。
……それでも、すでに滝川さんはそこに立っていた。
――えっ……もう来てる。
思わず胸の内で呟く。
この前会ったばかりなのに、何だか雰囲気が違う気がした。
わたしの見方が変わったからなのか、それとも今日の爽やかなシャツ姿がよく似合っていたからなのか――。
滝川さんがわたしに気づくと、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「やっぱり、ワンピースがお似合いですね」
ドキリとした。
そういえばわたしは昔からワンピースが好きでよく着ていた。
そして今日着ているのは、ヒロちゃんが一緒に選んでくれたワンピース。
なんだか全部見透かされているみたいで、照れくさくて視線を逸らした。
「少し早いですが……十分前ならもう入れてもらえますよね。そろそろ行きましょうか」
滝川さんの落ち着いた声に促され、わたしは小さく頷いた。
店に入ると、日曜日のお昼時で賑わっていて、あちこちから談笑の声が聞こえてくる。
わたしたちは予約席に案内され、向かい合わせに腰を下ろした。
「おすすめはありますか?」
滝川さんに聞かれて、わたしはメニューを開く。
半年ぶりに訪れたせいか、見覚えのある料理もあれば、新しい料理もあった。
季節限定のメニューまで並んでいて、どれにしようか迷ってしまう。
「これ、以前食べたんですけど、美味しかったですよ」
指さして伝えると、滝川さんは迷わず頷いた。
「じゃあ、それにします」
わたしは結局、季節限定メニューを選ぶことにした。
メニューを閉じると、心の奥でふわりと不思議な高揚感が広がっていた。
料理が来るまでの間、思いのほか会話は弾んだ。
最初は少しぎこちなかったけれど、話し始めると意外に次々と話題が出てくる。
「滝川さんは今、どちらにお住まいなんですか?」
「学校から電車で二駅ほどのところです。歩いても二十分くらい。横井さんは?」
「わたしは学校からバスで十五分くらいのところですね。自転車でも通えるけど、雨の日はやっぱりバスか電車に頼っちゃいます」
「休みの日はどうされてるんですか?」
「最近は出かけるよりも、家でゆっくり過ごすことが多いです。あ、でもこの辺りだとルーチェ……は、まあ、事情があって行かなくなってしまったんですけど。かわりに別のカフェを探してて」
「なるほど。俺もこの辺りは詳しくなくて……。今日みたいなお店を教えてもらえると助かります」
そんなやり取りをしているうちに、二人が頼んだパスタがテーブルに運ばれてきた。
湯気の立つ皿を前にして、思わず顔がほころぶ。
「美味しそうですね」
「ええ、本当に」
フォークを手に取り、一口食べる。アルデンテの麺にソースがよく絡み、思わず頬が緩んだ。
「やっぱり、ここにして正解でしたね」
滝川さんも満足そうに微笑み、会話はさらに弾んでいった。
──そのときだった。
テーブルの上に置いていたわたしのスマホが、ぶるぶると震えだした。
通知をバイブにしていたから、音は鳴らないけれど、ずっと鳴り続ける振動に心臓がざわつく。
「出ても大丈夫ですよ」
滝川さんが静かに言ってくれた。
でも、わたしは画面を見てすぐに表情が曇った。
……母からだったからだ。
出ればきっと、またあの話になる。
結婚はまだなのか、彼はどんな人なのかと。
そんな予想がついてしまって、結局、通話を切らずにそのまま震えが止まるのを待った。
「……何か困りごとですか?」
滝川さんが心配そうに尋ねる。
「いえ……母から最近よく連絡が来るんです。しつこいくらいに」
「そうなんですか。何か事情が?」
わたしはフォークを置き、深く息をついた。
「実は……元カレと六年付き合っていたんです。そのことを母には伝えてあって。結婚を考えてるんでしょう?って、会うたびに言われて……。でもわたし、彼のことを母にほとんど話してなくて、どんな人なのかって根掘り葉掘り聞いてきて。別れたことも、まだ言えていないんです」
声が震えそうになるのを必死に抑えながら話すと、滝川さんは黙って耳を傾けてくれていた。
「結婚相手なんて、すぐに見つかるわけがないのに……母には『一度連れてきなさい』ってしつこく言われ続けて。正直、このままじゃずっと連絡が来そうで」
そう言ってうつむいた瞬間だった。
滝川さんがふっと真剣な声で口を開いた。
「……そういうことでしたら――俺と、結婚しませんか?」
時間が止まったように感じた。
耳に届いた言葉が信じられなくて、わたしはただ呆然と滝川さんの顔を見つめていた。

四月の朝、少し肌寒さが残る空気を吸い込みながら、わたしは來の車の助手席に座っていた。これまで通勤は電車かバスばかりだったけれど、今日からは來が車で送ってくれるという。「免許は持ってるんだよね?」運転席の來がちらりとわたしを見た。「……持ってるけど、ペーパードライバーだから。もう何年もハンドル握ってないの」「練習してみる?俺の車で」「無理よ。怖いもの」即答すると、來は小さく笑った。その笑顔があまりに自然で、むしろわたしの方が恥ずかしくなってしまった。今日は來の初出勤の日。いつもより少し早めに出たいと彼が言うので、わたしもそれに合わせて家を出た。思ったよりも早く学校に着き、わたしはいつもより静かな廊下を歩きながら保健室の鍵を開けた。朝礼では、新しく赴任してきた三人の先生の自己紹介があった。もちろん、その中には來もいる。彼が壇上に立って話す姿を、わたしは同僚として、そして“妻”として見つめているという事実が、なんだか不思議に感じられた。まだ春休み中のため、生徒は部活動に参加している子たちだけ。今日は午前のみの活動らしく、校舎はいつもより静かだった。來はバレー部の副顧問になったと聞き、少し意外に思う。体育館で生徒たちと顔を合わせる來を想像すると、なんだか新鮮だった。午前の間、保健室にやって来たのは二人の生徒だけだった。頭痛と軽い捻挫。どちらも大事には至らず、わたしはいつもの仕事をこなしながら、時折廊下から聞こえてくる部活の声や、新しい同僚たちの会話を耳にしていた。「今日からここで一緒に働くんだ」そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。午後になると、生徒たちは部活を切り上げて全員下校させられた。理由は職員会議があるから。新年度を目前に控え、最終の確認と準備を行うためだった。会議室に集まると、まずはクラス分けの名簿が配られた。すでに決定している名簿にそれぞれの担任名も記されている。ざっと目を通すと、そこには「二年二組 担任 滝川來」とあった。二組の子たちは、わたしの印象では明るく元気な生徒が多い。でも根は素直で、先生に心を開きやすい子が多いから、來にとっては初めてのこの学校でも、担任としてやりやすいはず……そんな風に思った。会議は教頭先生の主導で淡々と進んでいく。途中、例年通り健康診断の実施方法についてわたしか
三月も中旬を過ぎたころ。引っ越し業者に頼むにはもう時間が足りず、荷物は自分たちで運ぶことになった。來が荷物の量を確認したいと、初めてわたしの家にやってきた。ドアを開けて中に入った來は、部屋をぐるりと見回すと、少し驚いた顔をした。「思ったより少ないですね」確かに、必要最低限のもの以外はすでに段ボールに詰めていたし、家具も小さな本棚やタンス、軽いテーブルばかりだった。「これなら俺一人で運べるかな。何回か往復すれば大丈夫そうだ」來が頼もしそうに言う。わたしは心の中で、やっぱりしっかりしている人だなと思った。その日は、簡単な夕食を出すことにしていた。でも、冷蔵庫にはほとんど何も残っていなくて、作れたのはチャーハンくらい。「ごめんなさい、こんなものしか出せなくて……」思わず頭を下げていた。気づけばまた敬語に戻っている自分に、内心で苦笑する。來はスプーンを口に運ぶと、少し目を細めて言った。「これから、こんな美味しいご飯が食べられるんだな」その言葉に、胸がドキリと跳ねた。簡単なチャーハンを褒められただけなのに、どうしてこんなに心が揺れるんだろう。わたしは視線を落としながら、頬の熱を隠すように小さく笑った。***3月30日、土曜日。今日と明日の2日間で引っ越しと婚姻届の提出を済ませることになっていた。朝から荷物を運び出しながら、來が「ベッドがなくて助かったな。布団で寝ててくれてありがとう」と冗談めかして言う。確かにベッドがあったら、もっと大変だっただろう。重い家具や家電はすべて來が率先して持ってくれて、わたしが運んだのは段ボールだけ。何度も往復して、昼から夕方にはすべてを運び終えることができた。來のマンションは、外観からして高級そうで立派だった。エントランスに足を踏み入れると、シンプルだけれど洗練された雰囲気が漂っていて、わたしは思わず背筋を伸ばしてしまう。エレベーターで6階へ上がると、そこに來の部屋があった。中に入ると、広々としていて整った空間が広がっていた。無駄のないシンプルな家具が並んでいて、それでいて温かみもある。「ここが奈那子の部屋だ」そう案内されて、驚いた。わたし専用の部屋がちゃんと用意されていたのだ。そこに自分の荷物をすべて運び込むと、ようやく「引っ越したんだ」と実感が湧いてきた。夕方、すっかり疲れ切
少しずつ、部屋の荷物を整理し始めた。わたしの部屋は、社会人になってから住み続けている小さなアパート。決して広くはないけれど、一人で暮らすには十分だったし、不自由を感じたこともなかった。改めて見渡してみると、置いてあるものは本当に最小限だった。生活に必要なものしか置かないようにしていたから、引っ越しもそこまで大変ではなさそうだ。けれど、段ボールを組み立てて荷物を詰めていく手はなぜか落ち着かない。《手伝えることがあったら言ってね》涼ちゃんからのメッセージが来たと思ったら、《アタシもいつでも行くから》ヒロちゃんからのスタンプ付きの連絡が来た。二人の存在がありがたくて胸が温かくなる。でも、結局は自分の気持ちを整理するのが一番難しい作業だった。來が言っていた。「僕のマンションは、二人で暮らすには十分な広さがありますよ」と。わたしは同棲なんてしたことがなかった。誰かと一緒に暮らす――それ自体が、初めての経験。しかもそれが、契約結婚という形だなんて。段ボールに本を詰めながら、ふと手が止まった。狭いけれど落ち着くこの部屋。ここで過ごした日々を思い出すと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。新しい生活が楽しみじゃないわけじゃない。けれど、緊張の方がずっと大きかった。***二月の終わり。もうすぐ卒業式を迎えるこの時期、校内には独特の緊張感と慌ただしさが漂っていた。わたしはその日、教頭先生と校長先生のところへ結婚の報告に行った。「それはおめでとうございます」二人にそう言われ、笑顔で頭を下げながらも、胸の奥は少しだけざわついていた。名字が滝川に変わることも伝えた。けれど、仕事では旧姓の横井を名乗り続けたいとお願いした。一瞬、不思議そうな表情をされてから「もちろん構いませんよ」と了承を得られた。心の中では小さく安堵の息をついた。――もし本当に1年後に離婚したら。そのたびに名字が変わって、生徒たちの好奇心の的になるのは避けたかった。余計な注目を浴びるのは、もうこりごりだ。この日は卒業式の練習で3年生も登校していた。結婚の報告を済ませた以外は、特別変わったことのない一日だった。放課後、保健室に戻って片付けをしていると、早川先生が顔を出した。「お疲れさま」その何気ない声に、わたしはふと決心がついた。「実は……」わたしは早
そこからは驚くほどトントン拍子に話が進んでいった。母に「結婚したい人がいる」と伝えると、食い気味に「じゃあすぐに実家に連れてきなさい」と言われた。あまりに早い展開に、胸の奥でひやりとしたものを感じたけれど、もう止めることはできない。滝川さんとも予定を調整して、全員の都合が合う土曜日に挨拶へ行くことになった。その間も滝川さんからは「ご両親が好きなお菓子やスイーツなどありますか?」と気遣うような連絡が入ってきて、真面目さと誠実さを感じて胸が温かくなった。仕事帰り、わたしはヒロちゃんの美容院が閉まる時間を見計らって立ち寄った。事前に「顔を出すね」と連絡をしていたので、ヒロちゃんは驚いた顔をしながらも「中で待ってて」と言ってくれた。最後のお客さんが帰り、スタッフも帰っていったあと。美容院の空間には、わたしとヒロちゃんの二人だけが残った。ヒロちゃんは椅子に腰かけて、わたしの隣に座る。「……実はね」わたしは深呼吸をして、滝川さんとのことを話し始めた。カフェでの偶然の出会いから、契約結婚の提案、そして自分が決意に至るまで――。全てを話すのは少し勇気がいったけれど、ヒロちゃんなら受け止めてくれると思えた。話し終えると、ヒロちゃんはじっとわたしを見つめて、それから小さく笑った。「ふーん……奈那子が決めたことなら、アタシは応援するわ。奈那子が幸せになれるなら、それでいい」その言葉に胸がじんと熱くなる。ヒロちゃんが昔のように細かく口を出してこなかったのも、少し意外だった。「なんだか……ヒロちゃん、大人になったね」冗談めかして言うと、ヒロちゃんは大げさに目を見開いて、すぐに笑った。「当たり前でしょ。アタシたち、もういくつになったと思ってるの?」二人で顔を見合わせて、思わず声をあげて笑った。その笑い声に、不安ばかりだった気持ちがほんの少し軽くなった気がした。***両親への挨拶の日が、とうとうやって来た。実家はそれほど遠くないけれど、電車だと乗り換えが多いから、車で迎えに来てくれると言ってくれた滝川さんの厚意に甘えることにした。マンションの前に停まっていた黒い車を見たとき、胸が高鳴った。窓がすっと開いて、運転席から滝川さんが顔を出す。「どうぞ、横井さん」助手席のドアを開けられて、一瞬ためらってしまう。付き合ってもいない人の隣に、まるで
家に帰ってからも、心はざわついたままだった。ベッドに腰を下ろしても、シャワーを浴びても、あのときの言葉が耳から離れない。――「そういうことでしたら、俺と結婚しませんか?」あのとき、わたしは固まってしまった。冗談のようにも聞こえたけれど、滝川さんの表情は真剣だった。「この提案は、お互いにとって悪いことではないはずです」そう言われたときの声が、頭の中で繰り返される。結局、わたしは何も答えられなかった。「返事はまたでいいです」そう言って別れた滝川さんの姿が、妙に穏やかで、それがかえって胸に引っかかった。……どうしよう。滝川さんの提案を受け入れれば、確かに母への説明は丸く収まる。「結婚を考えている相手がいる」と紹介すれば、しつこい連絡もなくなるだろう。でも──。付き合ってもいない男性と、しかも好きだと胸を張って言えるわけでもない相手と結婚してしまって、本当にいいのだろうか。冷静になればなるほど、頭の中で「ありえない」という声が響く。それでも、どうしても引っかかる。──「お互いにとって悪いことではない」あれはどういう意味だったのだろう。わたしにとっては確かに都合がいい。けれど、滝川さんにとっては?……もしかして、滝川さんはまだ元カノのことを忘れられないのだろうか。もしそうなら、この結婚はわたしのためだけじゃなく、滝川さん自身のためでもあるのかもしれない。そう考えると、胸の奥に重たいものが広がった。わたしは、どうすればいいのか分からなかった。答えを出せないまま、ただ布団に身を沈め、天井を見つめ続けた。***《涼ちゃん、相談したいことがあるんだけど》そうラインを送ったら、すぐに「いいよ、仕事終わりに寄るね」と返事が来た。夜、チャイムが鳴り、玄関を開けると涼ちゃんが立っていた。「相談があるって言ったのに、わざわざ来てもらってごめんね」そう言うと、涼ちゃんはにこっと笑って肩をすくめた。「いいのよ。それに奈那子の家だと、美味しいご飯が出てくるし」その言葉に、少し心が和らいだ。テーブルに用意しておいた夕飯を並べながら、わたしはまた謝る。「ごめんね、簡単なものしか作れなくて」すると涼ちゃんは箸を手に取りながら、嬉しそうに目を細めた。「これ、私の好物じゃない。……ありがと」そう言ってくれるのが嬉しくて、少し照れながら
あれから、滝川さんとはラインでやり取りを続けていた。一日一通だけ。ほんの短いやり取りだけだった。でも、その一通を待つのが、いつの間にかわたしの日課になっていた。《お疲れさまです。今日も寒いですね》《お疲れさまです。生徒たちは元気でしたか?》そんな他愛のない文章なのに、読み返すたび、心が少しだけ温かくなる。……不思議だな。こんな気持ちになるなんて。ふとスマホの画面を閉じると、母からの不在着信が目に入った。「……また?」きっと結婚のことを言われるに決まっている。あえて折り返す気にはなれず、わたしはスマホを裏返した。学校でも、生徒たちがやたらとわたしのことを観察している。「先生、最近なんか変わったよね?」「絶対、彼氏できたんだって!」「どんな人?どんな人?」保健室の中で勝手に盛り上がる声。否定するタイミングもなく、わたしは「まあ、いいか」と心の中で呟いて、備品の確認に集中することにした。放課後。生徒がいなくなった静かな保健室に、早川先生がふらりと顔を出した。「お疲れさま。ちょっと休ませて」椅子に腰かけた先生と、自然と雑談になる。「最近、二年生の子たち、少し落ち着いてきましたよね」「うん、確かに。保健室に来る子の顔も、前より明るい気がする」他愛ない会話のはずなのに、どこか心地よかった。だけど──。「そういえば奈那子先生、最近ルーチェに行ったって聞かないけど……行ってる?」一瞬、心臓が跳ねた。……ルーチェ。その名前を聞いただけで、胸の奥がざわつく。わたしは慌てて笑顔を作り、「そういえば、最近は行ってないかな」とだけ答えた。嘘ではないけれど、本当の理由を言えるわけがない。「そっか」早川先生は深く詮索することなく、それ以上は聞いてこなかった。わたしは手元の資料を片付けながら、まだ胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。***滝川さんと、あのパスタ専門店で会う日が決まった。ラインのやり取りを続けるうちに、次の日曜日にランチを一緒にする約束をしたのだ。その瞬間から、胸がそわそわし始めて落ち着かない。気づけばわたしはスマホを手にして、ヒロちゃんにラインを送っていた。《何の服を着て行ったらいいと思う?》送信してから、自分で赤面する。まるで学生みたいな悩み。すると、すぐに既読がつき、返事が届いた。《あら、学生
